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FUSION(融合)【1】―新聞記事【1】 [新聞記事]

小説「FUSION」が始まる前にまず前述の【I'm bein' X】が入ります。
そしてところどころに音楽と新聞記事が入ります。まずはこの記事から。


「至福の逆説」
感動のヒューマン大作映画
「シティ・オブ・ジョイ」を見る

 ローランド・ジョフィ監督の「シティ・オブ・ジョイ(歓喜の街)」に描かれたカルカッタを見た瞬間、あの都会へ初めて着いたときのショックをまざまざと思い出した。
 深夜だったが、街は三十度を越える暑さ。そして人も牛も犬も、みな同じ路上に眠っていた。大体、日本でも欧米でも、近代社会では人間は家で寝るものと決まっている。だが、ここではそんな常識などまるで通じないのである。貧しいし汚い。昼には群衆がごった返している。
 だが、不思議なことに、日がたつにつれ、近代社会の生き方が窮屈に感じられてくる。インド的無秩序のほうがずっと気楽で、心豊かなのである。

 時計にせかせか追い立てられることがない。牛や鳥や樹木は、人間と同じように物を喋ってくれるようである。こうして私は、ある日、インドで突然、至福の思いを味わっている自分に気づいたのだった。
 あの息づまるようなカンボジア革命を迫真的に描いてアカデミー賞に輝いた「キリング・フィールド」のジョフィ監督の傑作「シティ・オブ・ジョイ」を語るには、どうしてもこのインド的至福に触れないわけにはゆかない。カルカッタの倒錯的な悦楽を知らないと、この映画を逆方向から見ることになってしまうからだ。

 普通の見方だと、アメリカ人の医師マックスが医者としての無力さに絶望し、異郷カルカッタで何もかも忘れ、別の人生を生きようとする。だが、この都会の最も貧しい人々の集まる「歓喜の街」と呼ばれる地区で、医療のボランティア活動をする女性ジョアンの人間愛に打たれ、医療の意味を再発見し、ふたたび医師としての自覚を取り戻す、というストーリーである。

 干ばつのため農村を棄てカルカッタで苦闘するハザリ一家との友情、歓喜の街を支配するマフィアとの戦い、ハンセン氏病患者たちの救済活動など、欧米ヒューマニズムの涙ぐましいシーンもふんだんに織り込まれている。

 だが、前述のように、カルカッタ、いやインドそのものが、実は、生の神秘さを知りつくす歓喜の大地だと知ると、見方が違ってしまう。医療ボランティアたちは貧しい人々に幸福を与える。だが、至福を与えられているのは、マックスであり、ジョアンなのだ。悪びれず生きるインド民衆の活気が画面に溢れる。貧しさが豊かさであり、混沌(こんとん)が実は生の秩序である―そんな逆説の歓喜に貫かれる映画といっていいだろうか。

(作家 辻 邦生)
1992年5月23日付読売新聞

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FUSION(融合)【1】―新聞記事【2】 [新聞記事]

「ニューヨークから江崎玲於奈

アナキストとタヌキ

思わぬ侵入者 物分りに差

しかるべき処置を講じております。学長 スタトポロス」

 いうまでもなく、大学が人物を選び、名誉博士の称号を授与することは、欧米では古くからの習わしであり、各大学の伝統に基づく授与式は学外との連携を高める渉外活動の重要な柱の一つになっている。筆者などもすでにいくつかの大学からこの称号を受けた経験がある。

 ところで、アテネ大学では学外との連携どころか、今回、この手紙の通り、とんでもない乱入者を迎えることになったのである。それはちょうど、私が賞状を受け取り、やおら演壇に上がって受諾講演を始めた矢先であった。入り口近くで小競り合いのあと、三、四十人のシャツにショーツの若者男女がどっと流れ込み講堂の下座に陣取った。

 参加者はただあっ気にとられているだけで、学校当局者が若者と交渉するが何のきき目もない。壇上には私をも含めて中世を思わせるガウンと帽子に身を固めた学者先生たちが居並ぶ。下座の若者たちはこれらの権威に対し、二十年ぐらい前、アメリカでもさかんであった、いわゆる反カルチャー運動をやっているのである。

 やがて、代表者がギリシャ語で声明文を読み上げはじめた。現政府の帝国主義的政策を批判し、若者を犠牲にする皆兵制度をやめろ、といっているのだそうだが、声も大きく、迫力がある。その後、この若者たちは壇上の方に駆け寄り、さすがこの時は身の危険を感じ、参加者たちは裏口の方へ退いたが、かれらは大学のシンボルであるアテネ神像の校旗を打ち倒すなどの暴行を働いて引き揚げた。通常、警察権は学内には及ばないことを承知のうえでの行為であろう。この思いがけない、しばしの中断の後、私は予定通り講演を続けたのである。

 さて、われわれは、この事件のあと、ヨーロッパ諸国に数週間滞在してニューヨークの自宅に戻った。この間、空き家になっていたのであるが、帰ってみると暖炉の中でガタゴト音がする。どうもわが家にもとんでもない侵入ものがいるらしい。

 ニューヨークの郊外住宅には、大てい煉瓦(れんが)づくりの煙突と暖炉が備わっている。クリスマスにサンタの来訪を受けるためには必要であるが、夏には無用の長物なので、ふだんはダンパーと呼ばれる炉の風戸の上、煙突の中なので姿は見えないが、なき声からしてどうもタヌキの親子が巣ごもっている様子である。もっとも、アナキストたちと違い、暴力を振るうことはないが、ライフスタイルが異なる点が問題なのである。われわれが休むころ、親ダヌキがお帰りになる。そうなると子ダヌキたちは大騒ぎする。このためわれわれの安眠が妨害されるのである。

 思案のすえ、煙突掃除人を呼ぶことにした。アテネ大学長は決してしなかったが、まあわれわれは、強権を導入したのである。

 夕暮れどき、景気のよいお兄さんがやって来た。事情を話すと、早速、屋根伝いに煙突に上がる。そして上から大きな声でタヌキたちにどなりはじめた。『こら、お前たち、ここをどこだと思ってるんだ。人間さまの家の煙突の中だぞ。すぐに出て行かねば、下から火をたいて丸焼きにするぞ』といった調子のことを数分続けて、その日は帰っていった。そして、翌日も、またその次の日も、彼は同じことを三度続けたのである。

 さて、三日目の夜、暖炉からの音はぴたりとなくなった。ついにタヌキとのコミュニケーションが成功したのである。親ダヌキは子ダヌキをつれて山の方に退散してくれた。この平和解決のお代は二十五ドル。アテネのアナキストよりニューヨークのタヌキの方がよほど物分かりがよいという夏の夜の物語である。

(1991年8月11日付読売新聞)


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